にょろ子ログ

神社に伝わる伝承、伝説、民間信仰、祭りが好物な蛇🐍

鹿島大明神は、金の鷲に乗って奥州は塩釜から降り立ったニョロ〜??!🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

またまた前回に引き続き、城里町の「鹿島さま」の伝承地でございます~

 

 

お話の舞台となった神社の紹介

茨城県東茨城郡城里町上古内(かみふるうち)

鹿島神社

御祭神:武甕槌神

    建御名方神

前に藤井川、後ろに古内山、そのむこうには常陸国二之宮「静神社」の本宮、元宮と伝わる「あの、笠の宮」を合祀した「小坂神社」が控える伝説の地に相応しい土地。

このあたりから牛伏(うしぶし)あたりまで、「フジ、フシ」は割とキーワード。
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こちらもまた合わせてどうぞ↓

小坂神社のTwitter記事です


[https://twitter.com/seimei421haniwa/

 

まずは、神社由緒書です

国土統一を、諏訪の「建御名方神」を従神として成し遂げたと書かれています。

これはちょっと見たことない伝承で心躍り出しましたニョロ。
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では「茨城の史跡と伝説」より、惹かれるお話をご紹介📖

『金の鷲に乗る神』

東茨城郡常北町は「朝房山」の北ろく一帯をしめ「和名抄」にいう「那賀郡鹿島郷

の地にあたり、大字古内(ふるうち)は朝房山古名「フジフシ」の名残と云われている。

 

 

朝房山」は常陸国風土記に載るヌカヒコ、ヌカヒメのお話の舞台とされている(諸説あり)山です。

大好きなので勿論訪れています。

途中ですが、Twitter朝房山(風土記では晡時臥山、くれふし山)の記事です↓

 

朝房山の古名が「フジフシ」というのは、この本で初めてみかけました。

 

藤内神社の記事もどうぞ↓

 

続き↓

ここらのあたりを鹿島郷と名付けたわけは、二十年目ごとに造営する定めになっている

鹿島神宮修造の材木を伐りだす「宮材の山」だからだからである。

六国史の中の三代実録に「これより先、常陸国鹿島神宮司云う、鹿島大神宮六箇院

二十年間に一度修造を加ふ、所用材木五万余枝採造する宮材之山は那賀郡に在り

宮を去る二百余り、挽運の煩ひ多し」とあり五万余枝の宮材というのは栗材である。

鹿島は空気が多量の塩分を含んでいるので、栗材でないと二十年は保てない。

それで遠隔地であり、道も険悪であるが栗の木の多いこの地方が「宮材の山」に選ばれたわけである。

だがそれだけでなく「鹿島大明神は奥州塩釜から『金の鷲』に乗って初めて常陸の国に来られたが、その天降られた地が『常陸国中郡古内山』であるというのである。

 

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拝殿後ろの御本殿の裏が古内山(ふるうちやま)になるとおもいます。

 

こちらになぜか、奥州塩釜から鹿島の神が金の鷲に乗って降り立ったんですね~

鹿島大明神と書かれているだけで、武甕槌神とはされていないところに注意かも。

 

おお~ここに~。

なんて思うと参拝のあとの境内散策がより一層楽しくなるニョロ

みなさんも、伝承を調べてから神社にお参りしてみてみて~♪
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え~💦

すいません、また続きを~

この伝承は僧円禎が延文三年に編んだ「安居院神道集」の中に「鹿島大明神天津児屋根命金鷲に駕して常陸国へ天降りつつ古内山の旧跡の里に顕る」とか「其後国中を廻り、鹿島郡宮処に御在所を定む」とか、鹿島大明神天津児屋根命とまぜこぜにしながら書き留めている。

 

隣の城北町(旧小松村上入野)の鎮守鹿島神社の神庭三十世歩の間には、一本の木の根もないのは、昔、鹿島の神がここにこられた際、木の根につまずいてお転びになった。

神様はご機嫌はなはだ斜めで、其のあたりの木の根をことごとく土中深く踏み込んでしまわれた。

それからは一つの木の根すらも生えないというのである。

 

 

この旧小松村の上入野「鹿島神社」は、先日ブログに書いてます

よろしければ見てください。↓

 

nyorokolog.hatenablog.com

 

踏み込んでしまわれた→戦いに踏み込んだ地→敵陣への第一歩なのだという。

 

この木の根の神社は、旧小松村からの遷祀ということも、この本で知りました。

 

「茨城の史跡と伝承」では、このあと、

アイヌの祖先は金鷲に乗って北方から来たと信じていることから、

武甕槌命は、夷族の金鷲伝承を利用し同じ神(カムイ)だと巧みに利用したのではないかと書いています。

 

昔の地図に「上入野の小松村」は確かにある

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八坂神社か、または小松寺のあたりもあるかもですね。
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 にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

参拝と神々の物語へ思い馳せたあと、鳥居の内側、聖から俗の風景を見る。

必ずそうするのは、もちろんその舞台を見る為でもあるけど…

神と人と、土地の物語が大好物な蛇だからなのです。

人の住む野と、神の領域と、山と川を見て肌で感じ

風や植物、動物の囁きを聞いてみたりしてるニョロ。

 

今回は、ネットに載ってるようなメジャーな伝承地ではない、ちょっとマニアックな鹿島神の足跡を辿る聖地巡礼となりましたが、とりあえずは今回で終わりです。

とりあえずは🐍

 

常陸国の伝説の地を巡っていれば、またなにかの欠片を見つけられるかも🐍

紅葉を見て、母蛇を思い出し🐍

雨の「雲巌寺」にお参りしました

今回も普通の写真ブログです♪

サラ〜っといきますニョロ🐍

 

【雲岩寺】

栃木県大田原市

臨済宗妙心寺派
御本尊は、釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)

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この日は小雨模様でしたが、この靄が

境内をより一層、厳かな雰囲気にさせていました。

朱色の橋が美しいです

この橋を吉永小百合さんも渡ったんですね。

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山門を潜ると、仏殿が見えます

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雨に濡れ、いちだんと濃くなる紅葉🍁

自然が織り成す葉の色は ほんとうに美しい
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母蛇は、にょろ子が10才の時に癌で三途の川を渡ってあの世に行ってしまいました。

雲巌寺の紅葉は、母と見たかったと思ったのは何故だろう。

赤いもみじで栞を作ってくれたから、かな?

 

余談

娘が小学校の時の、二者面談で…

担任先生に姑(娘の祖母)が亡くなったばかりだから、娘にも少しショックがある様子だと話したら、先生もお母様を何ヶ月か前に亡くしたのだと言った。

 

私は「それは大変でしたね、ご愁傷さまでした」と哀悼の意を伝えた。

おばあちゃんは御幾つだったのですか?と聞かれたので、まだ67才だったと言ったら、先生のお母様はもう少しお若かったらしく「あぁ、67、それならまだではない、若くはないですね…」とボソッと言った。

先生はお気の毒だったと思うし、大変なショックを受けていたとは思いますが、人の死を悼む心は、残された者にとっては同じ気持ちだ。死の年齢を天秤で計るのは違うと思いました。

 

次回は、また武甕槌命関係の伝承ですニョロ🐍

天津甕星香香背男VS武甕槌命! たかが物語、されど伝承ニョロ🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

前回は霞ヶ浦、北浦、涸沼方面の武甕槌命様伝承の地を巡りましたが

今回は常北方面の足跡をたどってみました。

 

城里町上入野

鹿島神社

御祭神は、もちろん武甕槌命です。

↓以下常北町史より

社伝によれば、祭神が露出の木の根につまずかれたゆかりの現在地に、

大同二年(807)に「入野鹿島から遷祀」したと伝える。

文三年「開基帳」に「開基は大同二年に建立と申伝候」とある。

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現在の字図にある「鹿島前」「鹿島下」のあたりがもとの鎮座地と伝えられる。

その殆どが畑地で、土師器、須恵器の破片が出土する。


鹿島下、鹿島前付近の字地図

鹿島の下という地名なら「鹿島」は台地にあ

ったのだと想像f:id:nyorokolog:20191123165041j:image

以前お参りした、高台に鎮座している「鹿島神社」です。

 

位置的には「鹿島下」あたりで良い感じなのですが、元の鎮座地とは伝わっていないようですね。

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武甕槌命が木の根につまずいたのは、元の鎮座地「入野鹿島」なのか、こちらの鹿島神社なのか、どちらなのでしょうね。

神様が木の根っこにつまずいたからといって、祭祀が始まるというのも変な話ですよね。

これには意味があるようです、参考文を読みながら考えていきたいと思います。


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田舎にひっそりと鎮座する神社の参道は、

なぜこんなにも惹かれるのか。

たくさんの人が参拝される、有名な神社や、綺羅びやかで美しい神社も良いのですが、

鎮守の杜を抜け、神聖な領域に入るこの雰囲気は、やはり人気(ひとけ)のない田舎の神社の方がより一層強く感じることができると思います。
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境内由緒には書かれていませんが、

茨城県神社史にもこのように書かれている。

「往古武甕槌命、当地方鎮撫に当たられたとき、露出の木の根につまずかれたので「足を踏み込まれたゆかりの地を選んで、入野鹿島から遷祀したという」

木の根につまずいた=戦地に足を踏み込んだ第一歩ということらしいです。
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この地方に多い「合わせしめ縄」という形
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「ふるさとしずめ」より

太古、天津甕星、またの名を香香背男といふ悪伸の勢力範囲にあって暴威をほしいままにしていた。

天つ神の御委任をうけ平定の大任を帯びた武甕槌命、鳥磐樟船命(石船神)建葉槌命たちは西部に天降られ、慎重な空陸一体の作戦をねられて香香背男軍に向かったが、神出鬼没、極めて巧妙頑強で、大激戦が至るところに展開された。

 

このように「当地方鎮撫」の敵とは、天つ神でありながら、討伐される側となった

天津甕星香香背男」軍だったと伝えられているようです。

 

御本殿は青空に映える朱
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大同二年創建といえば、常陸国二ノ宮である「静神社(御祭神:建葉槌命天手力男命」の本宮との伝えが残る「笠の宮」も同じく大同二年の創建と伝わる。

現在は小坂神社に合祀。

↓小坂神社

建葉槌神は、天津甕星香香背男様を討った神。

 

↓風隼神社

武甕槌命が東夷討伐の際に立ち寄ったので、祠を建てて祀った。

そして香香背男様が大岩に変じたところを、建葉槌神に蹴られ飛び散った石を祀る神社でもある。

風隼神社の社伝によると、御祭神の(石船神社祭神)と武甕槌命と鳥磐櫲樟船命建葉槌命たちは 当地の西部に天降られ、甕星一族(香香背男様一族)と戦い、これを破ったとあるそう。

 

にょろ子は、こう思うニョロ🐍🎀

この地区だけで10社にも及ぶという鹿島神社と、

鹿島河原、鹿島下、鹿島前などの地名、

鹿島神宮遷宮用材の伐採地で、鹿島発祥の地とも伝わる事から

香香背男軍との激戦区というのもうなずけるニョロ。

付近には「金洗沢」「金山」と、鉱物の香りのする地名と、

あの三輪山型神婚譚(苧環型)の舞台の候補と伝わる「朝房山」(直線距離で4kmほど)もある超~魅力的地。

香香背男軍は、鉱物資源のあるこの地にも進出していた。

↓は香香背男大岩が飛び散った地と、関連する神社の場所。

勢力圏だったのかもしれない。
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そして、武甕槌神軍、建葉槌命神軍、鳥磐櫲樟船命軍の三軍が協力体制となり、香香背男さま達は東に追われ大甕神社(甕の原)で敗れたのではないだろうか。

まるで鹿島の神紋「三つ巴」のよう。

武甕槌命では討伐出来なくて、建葉槌命が派遣されたのだから、司令官的立場?

なんて妄想するのも楽しい。

ものすごい遺跡か、古文書でも出ない限り正解なんてないのだから。

たかが物語、されど伝承ニョロ。

 

物語や伝承を思い浮かべて参拝

悪神とされてしまった甕星香香背男様にも

思いを馳せるお参りとなりました🐍

「ニワトリを飼わない里」我が家は「トウモロコシを植えない家」ニョロ🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

今回は、鹿島神宮の御祭神、御雷の神(武甕槌命が登場する「禁忌、タブー」のお話しです。

 

 タブー (taboo) とは

もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。

Wikipediaより―

 

茨城県阿見町石川

鹿島神社

むかし、石川地方に乱暴な神様がおりました。

日頃はおとなしいが、作物を奪ったり、田畑を荒らしたり、木はなぎ倒し、家を投げ飛ばすという具合で見境なく荒らし回ってどこかへ去っていく。

それを聞いた武御雷の神が「わしが退治して、百姓達を救ってやろう!」

とやってきたが、乱暴な神は恐ろしく力があるので、油断しているところを取り押さえようと、里へ入り物陰にかくれてじっと呼吸をころして、その神様が通りかかるのをまっていた。

ところが、日頃見たことがない御雷の神が潜んでいることに驚いた鶏たちが

「コケコッコー!!コッコッコッコ~!!」

と一斉に騒ぎ立て、待ち伏せしていることがわかってしまい、乱暴なかみさまは

「ゴーー!!」とものすごい声を発しながら武御雷の神に打ちかかってきた。

さあ、それからは大変、二神はこの地方を主戦場にしてかけめぐり、大地をゆさぶり踏み鳴らし、大木や岩石を飛ばしてのすさまじい戦いになり、武甕槌の神もさんざんな苦戦をしなければなりませんでした。

それからは、この地区では鶏を飼わない、武御雷を祀った鹿島神社にも鳥居を造りませんでした。にわとりの「とり」につうじるからです。

たまにそれを忘れてにわとりを飼う人がいると、不幸なことが起こると言い伝えられている。ー阿見町の昔話よりー
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ちいさな神社です、伝承どおり鳥居はありませんでした。
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位置的にはこんな感じ、人柱伝説、弁財天の祠の近くにも流れていた「清明川」が霞ヶ浦に注いでいます。
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flood mapsで古代の海域を見てみます。

125号線あたりまで霞ヶ浦の水域があるのが分かる、清明川は入り江となって

舟でこの里に上陸するにはいい感じに見えます。
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この石川地区にはもうひとつお話が伝わつている。

昔、美浦村の布佐(ふさ)地区と争いをして負けた時、勝った布佐地区の方から勝ちほこったかのように、一番鶏が鳴いた。

 負けた石川地区の人たちは、くやしくてくやしくてたまりませんでした。

その後、布佐地区とは縁組をしませんでした。また、神社のお祭りをする当番の家では、一年間鶏の肉を食べませんでした。

食べると火事悪病の不幸になると言われていたからです。

 

「ニワタリ、ミワタリ」などの地名や神社には、荷渡,庭足、三渡、鬼渡などの表記があるそうですが、二渡(ニワタリ)神社などでも鶏を飼わない、治癒祈願で鶏の絵を奉納するなどしたそうです。

↓以前参拝させていただいた常陸大宮市「鬼渡神社」さんですが、こちらは「キド」と読むようでした。

鶏の禁忌などは、今のところ見つけられない、情報ありましたら教えてください。

 

にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

あと二社、武甕槌命に関する伝承が伝わっている神社を参拝してますが、そちらでも最強の武神、というイメージからはちょっと違った感じで(また後日ブログ書きます)

ただ、天津甕星 香香背男様との戦いでも、かなり苦戦して、結局は建葉槌命を向かわせ退治という事になったので、苦戦するという事は同じニョロ🐍

 

ちなみに我が家でも禁忌がありまして、

「トウモロコシ🌽を植えてはイケナイ」と代々伝えられております。

親戚の家では女の子が生まれても「お雛様は飾ってはイケナイ」です。

それをした年に昔、なにか不幸があったのでしょうか。

 

もう少し、武甕槌命の足跡聖地巡礼にお付き合いくださいませニョロ🐍🎀

天上山から富士山を眺め、筑波山に〜と何回も言い間違えちゃうくらいの常陸国民ニョロ🐍

こんばんは、にょろ子です🐍🎀

11月10日に日帰りバス旅に行ったので、

今回は珍しく普通の写真ブログにしますニョロ🐍


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天上山山頂(別名かちかち山)まで、ロープウェイで上がります。

紅葉はまだ始まったばかりでした🍁✨


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「富士見台駅」に着くと、こんな感じの絶景が広がっていました。

逆光で泣けたけど、何とかごまかしごまかし撮りました💦


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「うさぎ神社」


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むかし、御祖神(みおやがみ)が国々を巡った時の日暮れ時、富士山に一夜の宿を頼むと、今日は新嘗の祭りで家中が物忌みをしているから、泊めることは出来ないと断りました。

 

筑波の山では、今夜は新嘗ですが、どうぞ

お泊り下さいと御馳走をしました。

神様は非常喜び、この山永く栄え人常に来きたり遊び、多くの祝い言を、歌に詠んで下さいました(言祝ぎ・ことほぎ)


 筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士の山はいつも雪が降っていて人が登ることもなく、反対に筑波の山は人々が集まり歌舞飲食が絶えないのだという。常陸国風土記より

 

新嘗祭(にいなめさい」)毎年11月23日

「新」は新穀(初穂)「嘗」は御馳走を意味し、天照大御神やすべての神様に新穀をお供えして、神様の恵みによって新穀を得たことを感謝するお祭り。

天皇が即位して最初のものが大嘗祭
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にょろ子は、筑波の山が見える常陸国に住んでいるので筑波山贔屓なのですが、やはり美しいものは美しいです/'''\✧︎

 

このブログを書いているこの日は、常陸国風土記・富士筑波伝説にありました

天皇陛下の即位に伴う「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的な儀式「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」が皇居にて行われた日。

14日夜から15日未明にかけて天皇陛下が、国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈られた日でした。

天皇陛下は「祭祀王」として、日本国民の平和と安寧を祈って下さってるんですね。

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天上山(かちかち山、嘯山(うそぶき山))

頂上からの富士山/'''\

♪あ〜たまを〜くもの〜う〜えにだし〜♪


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山頂【小御嶽神社


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山を降りて昼食を頂きました

湯気で見えない、ほうとう


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河口湖


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にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

普段は、神様足跡聖地巡礼、蛇しめ縄、道切り、人形道祖神、人柱、火祭りetc..

周りの人には言えないような、マニアックなところに行ってはニマニマしていますし、

一人の方が、妄想の赴くままに自由に動けて良いのですが、時には友だちと、組合と、家族と一緒もいいと思う。

ワイワイガヤガヤも、また違う楽しさニョロ🐍

それにしても、新嘗祭の日に国々を巡っていた御祖神(みおやがみ)

とは、どのような神なのでしょうね?


大嘗祭と古代の祭祀

大嘗祭の本義: 民俗学からみた大嘗祭

天皇と国民をつなぐ大嘗祭

 

神々の足跡を辿る聖地巡礼は、やめられないとまらないニョロ🐍🎀

はい、にょろ子です🐍🎀

以前、武甕槌命が休息した伝承がある神社を紹介しましたが、今回も武甕槌命のお話が伝わる神社さんです。

 

 

茨城県行方市【大枡神社】
御祭神︰武甕槌命

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武甕槌命が東国の賊を討伐する為、船で上陸し、武田峰に登って武運長久を天神地祇に祈り、見事成敗する事が出来た。
その後 村人が、当時使用した藤の木でつくった「大枡、鏡、剣、矢の根」を神宝として創建。

武田峰、勝負ヶ池の地名が残っているとか。

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境内の片隅にひっそりといらっしゃる庚申様や、小さな祠にも、物語りがあるのでしょうね。

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何年かが過ぎ、崇敬の念が薄れた頃、武田峰から夜間光を放ち、往来する帆船は進むことも、退くことも出来なくなる事が数日つづき、神の怒りと恐れ、今の岡山に移して祀った。

数年後に火災、藤の大枡は消失。鏡、剣、矢の根は灰塵の中から集めて神宝としたそうですが、今あるのは模造品だそうです。
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明治維新までは、鎮守様の大枡は藤の木だから、バチが当たるとして、草履や下駄の緒をすげるのに、藤の皮を使わなかった。
神社の西側の藤の大木は武田峰から御神体を担いでのが根付いたものといわれています。

 

スダジイらしき倒木は見かけました、立派な木だったのでしょうね、残念ですね。

西側に藤の木は見つからなかった。f:id:nyorokolog:20191027214740j:image

社殿後ろの椎の木の下に自然石が並んでいるところには、かつて火災があった際の灰塵を神宝にしたのもを収めたところで、踏み込めば神罰が下るといわれ、清掃以外で踏み入るものは居ないそう。

畏れ多いので、
遠くから望遠で、椎の木を幾つか。

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 「ふるさと文庫・北浦の昔ばなし 小沼忠夫著」には、この大枡神社の他に、もう一つ武甕槌命の伝承地を記しています。

【鬼越貝塚

大昔、土蜘蛛(コロボックル)というがいて、昼となく夜となく人々を苦しめ

この一帯を思うに任せ、勢いすこぶる凄まじかった。

この話を聞いた「武甕槌の神」は舟で神軍を率いて鬼退治のため鳴井(成井)のシメタに上陸し、一気にこの地の鬼を成敗した。

鬼を払い、平和な村によみがえったので

住民は、手を取り合って喜び踊りまくった。

誰言うとなく「鬼越」と名付け、平和のシンボルとして名をとどめた。

後の世に、この武甕槌の神を祀って村の鎮守として崇敬した。

 

この土蜘蛛の遺跡地からは、多数の遺物が発見されているそうで、10箇所以上の貝塚があると書かれています。


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大枡神社は茨城県行方市山田の地に鎮座、

鬼越は、繁昌地区にあります。

 

後日、このお話の中で創建された神社に伺いたいと思います。

またGoogleマップストリートビューで見つけた、たぶんそこだと思うニョロ🐍

 

にょろ子は、こう思うニョロ🐍🎀

コロボックル(コロポックルは、アイヌ語アイヌ伝承に登場する小人

背が低く、動きは素早く漁が巧み、屋根を蕗の葉で葺いた竪穴に住み、交友的などの伝承があるがはっきりとしていない。

土蜘蛛をコロボックルと伝わっているところが興味深いです。

 

せいち‐じゅんれい【聖地巡礼
1 宗教上の聖地・霊場などを参拝して回ること。聖地巡拝。→巡礼
2 俗に、熱心なファンが、アニメ・漫画の舞台となった土地や建物などを聖地と称して訪れること。―コトバンクよりです―

 

常陸国風土記や、常陸国に伝わる昔ばなしに登場する舞台を訪れては、遥か古代の風景を思い浮かべ、神々に思い馳せる。

どうしてその神がそこに祀られたのか、そしてその信仰はどのようなものなのか「神と、土地と、人」の物語りが大好き。

 

聖地巡礼には違いないけれど、崇敬の念、信仰の対象としては見ていないかも知れない。でも、巡っては参拝するのを止められない程に大好きなんだからしょうがないニョロ🐍

それにしてもほんと、超〜スローペースなブログ更新〜💦💦

怨霊と呼ばれた平将門公も、古代の合コン、嬥歌、歌垣(かがい、うたがき)で恋を語り合ってたニョロ〜!!歴史の欠片が残ってれば妄想蛇は生きて行けるニョロ🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

真壁探訪の続きです、同じく羽鳥に鎮座する

 

「歌姫明神」も参拝しました

うたずめ明神)と読みます、ちょっと読めないですよね。


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筑波山北側から延びる、羽鳥道から少し左に入った丘、そこは歌姫山(うたずめやま)と呼ばれていました。

 

万葉集や、常陸国風土記に載る「歌垣」が行われた場所の候補地の一つとなっています。

 

常陸国風土記より】

「坂より已東の諸国の男女、春は花の開ける時、秋は葉の黄づる節、相携ひ騈闐り、飲食を齎賫し、騎に歩に登臨り、遊楽び栖遅へり。其の唱に曰はく、筑波嶺に会はむと云ひし子は誰が言聞けばかみ寝会はずけむ、筑波嶺に廬りて妻無しに、我が寝む夜ろは早も明けぬかも詠へる歌甚多くして、載車るに勝へず」

 

都から、常陸国に赴任した高橋虫麻呂さんも歌を詠んでいます。

「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津もはきつの その津の上に 率(あども)ひて、未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集ひ、嬥歌(かがい)に 人妻に 吾も交はらむ、吾が妻に、人も言問(ことと)へこの山を 領うしはく神の 昔より 禁いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎とがむな」

反歌男神(ひこがみ)に 雲立ち登り しぐれ降り 濡れ通るとも 我帰らめや」

 

(訳)

鷹が住むほどに険しい筑波の山の、裳羽服津(もはきつ)の、泉のほとりに誘い合い 男女が集まって、遊ぶ歌垣(かがい)で 人妻に、私も言い寄ろう 私の妻に、他人も言い寄よりなさい、この山を支配している神様が 昔からお許しになっていることなのです。

今日だけは、人が言い寄ることを痛々しいなどと思って見てくれるな。 

また、私が言い寄よることをとがめるな。
(反歌訳)
筑波の男体山に雲が立ち登り、しぐれが降って、着物が濡れても、私は帰りはしない。

万葉集巻九・高橋虫麻呂

 

 お互いに気に入った者を見つけては、歌を交わしていたんですね。

古代の男子は歌がよめなければ、モテなかったのかもニョロ🐍

 

あの「平将門」様もここで、真壁郡大国玉の豪族、平真樹の娘君姫」と恋を語らい、妻にしたと伝わっているそう、昭和55年放送の「風と雲と虹と」では、平良兼の娘桔梗姫」だったんですね。(真壁町史より)

 

↓大国玉の「后神社」の記事です

君の前、君子」ともされている

「后」の文字が印象的でした。

 

羽鳥では昔、毎年二月一日に、男根をかたどった御神体を中心に、

3日、4日間も歌い踊る祭事「大同祭」が行われていたそうで、

歌垣の流れを汲んでいるとの説ある。

ここが風土記万葉集に登場する場所の候補とされるのも頷けるニョロ。f:id:nyorokolog:20191021212938j:image

この歌姫山(うたずめやま)の上に、住吉明神、菅原明神が合祀された「歌姫明神」

が鎮座しており、

入り口近くの草むらの中に、菅原道真供養碑が立っているそうですが、

風化が激しく判読できないもので、高さは80センチとの情報があったので、

こちらかなと思いましたが、不確か(真壁町史にもネットにも情報なしの為)

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供養碑には、明治44に発見された時は、こう書かれていたそうです。

【延長四年四月二十五日、常陸羽鳥 菅原神社所、為右菩提供養也、建菅原景行

源護兼平良等共也】

先日、菅原道真の「天神塚」を紹介しておいて何なんですが、景行さんが常陸国で最初に遺骨を納め、菅原神社を祀ったのはここ、歌姫明神(歌姫神社)だ!!説を出している方もいらっしゃいます。

 

菅原神社」と書かれていた供養碑がここにあって、秘伝として「天神塚には、骨など一切埋められていない」と代々当主に伝わっているという事なのどを考えると、

そうなのかも知れないと思ってしまう🐍💦

↓「天神塚」の記事です
nyorokolog.hatenablog.com

 

位置的にはこんな↓感じで「天神塚」と「歌姫明神」は950m程しか離れていません。

羽鳥道沿いには「筑波嶺の峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて淵となりける」

の「男女川(みなのがわ)」も流れている。

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さて、参道です

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途中の巨石
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少しづつ小さな社殿が見えてきます


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扉に刻まれているのは、菅原道真なのだそうです。


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↑社殿の左後方のこちらの祠が、

何故かとても気になりました。なぜでしょ。

もしかして、こっちが供養碑?

 

暦の上では「秋🍁」筑波山から吹く風が、時々歌姫山を吹き抜け、春と秋に行われた「嬥歌」を妄想するには、十分な雰囲気でした。

 

ただ、嬥歌の地の有力候補が他にありまして〜。

そこは「裳萩津(もはきつ)」という「裳羽服津(もはきつ)」と同じ読みの、筑波山中腹に広がる「夫女ヶ原」と呼ばれる「男女ヶ石」が鎮座するところなのです。

 

↓巨石、磐座好きな にょろ子はもちろん行ってますニョロ🐍♪「夫女ヶ原」

縄文時代中期の遺跡や、土師器や須恵器も出土している、筑波の男ノ神、女ノ神が間近に望める、いかにも嬥歌があったっぽい場所でした。

標高715mの地点ですが、裳萩"津”とあるように、古代には水が流れ込んでいた土地のようです。近くには金色姫伝説に登場する「豊"浦”」地名もありますね。

↓田植えが済んだばかりの「豊浦」辺りからの風景「逆さ筑波山」がこの時期だけ見られます〽
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 にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

住吉明神と和歌」で思い出すのは、陸奥側の「境の明神」に「玉津島神社(女神・衣通姫)」を祀り、下野側の「境の明神」に「住吉神社(明神)男神中筒男命」を祀っていた事。

それぞれ国境の神・和歌の神で、女神は内側(国を守る)男神は外側で、外敵を防ぐ信仰で、陸奥・下野ともに自らの側に「玉津島を祀る」って説。

 

嬥歌の地に、和歌三神のうちの二神が祀られているのは不思議ではないけど、

嬥歌が行われていた場所は山頂、川、海など「境界」の地が多いのだそう。

厳しい冬の寒さが終わり、春になると 人々は豊穣を筑波の二神(ふたかみ)の山に祈り、秋には実りを与えてくれた事を、飲食物を大量にお供えし自らも食す、神人共食を行い、歌い踊り、感謝する。

男女の交わりの祭り(祀り)は、道祖神に見る、性信仰、境界神、五穀豊穣を祈る信仰にも重なって見えた。

 

景行さんが最初に 父、道真公の遺骨を収めたとされる場所や、嬥歌が行われていた場所も、時の流れの中で、この辺りというだけで、ピンポイントでは はっきりとは分からなくなっている。

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でも、あんな昔の言い伝えが 親から子へ、子から孫へと脈々と繋いで来たことが凄い事、京都や奈良、東京など、歴史的にも有名な場所で記録に残りやすい所ならいざ知らずよ。

 

歴史的事実や歴史的場所は、遡るほどにハッキリせずに曖昧で、想像が広がる。

だからこそ、こんな好きだけで行動してる

にょろ子のような蛇🐍🎀でも、楽しく妄想出来るニョロ🐍

ここでは、嬥歌の風景を想像しました。

周りの景色をその時代に変えて、自然の音に耳をすませ、完全妄想参拝するのが、

にょろ子流のお参りニョロ🐍🎀テレテレ💦

 

ココ最近は忙しくて、更新もなかなか出来ないニョロ。

こんな蛇🐍のブログを読んで下さる

奇特な人、ありがとうございますニョロ🐍🎀

 

菅原道真が子息、景行は父の骨を背負って歩きに歩いた。あゝ筑波の山の見える鳶翔けるこの地にしよう。

 

はい、にょろ子です🐍🎀
今度は「菅原道真」さんなのです、時代的にもツボ的にも、にょろ子には珍しい方面なのです。

菅原道真公」の「車を牛に引かせて、牛の行くままに任せ、牛の止まった所に葬ってくれ」という遺言に従って定められた墓所安楽寺(大宰府天満宮)は、有名な話しですが、住民が語り継ぐ「あの菅原道真公、天神様を最初に祀ったのは、おらがふる里、真壁の羽鳥だ!」との伝承と羽鳥日月坪の「天神塚」を知ってる人はあまりいないかもですね。

 

大生郷天満宮ホームページより

社伝によりますと、菅原道真公の三男景行(かげゆき)公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え

「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」

と言われ、延喜三年(九〇三)二月二十五日に亡くなられました。

景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介として常陸国にやってきました。
景行公は、延長四年(九二六)に、現在の真壁町羽鳥に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(九二九)当時、飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては 最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神ともいわれています。

 

 

↓以前お参りした「大生郷天満宮」です。

現在は大生郷の天満宮ですが、当時は菅原村の菅原神社だった

鳥居は元の鎮座地「真壁」の方を向いて立っているそう。

御朱印です、

が、2014年9月参拝時のものです。

以前書きましたが、御朱印はご縁があった時だけ頂いてます。

御朱印は私の参拝目的ではありませんニョロ🐍

 

菅原道真公御廟所↓

(参拝した時の写真が見つからないので、こちらですみません)

https://g.co/kgs/fPBNbr

 

今回訪れたのは、大生郷に移される前に、三男(一説には二男)景行公により築かれた

真壁町羽鳥「天神塚古墳」です。

この「羽鳥」の郷は、機織りの郷だったようで、養蚕も盛んな土地で、

羽鳥道と呼ばれる山岳信仰の道もあったのだとか。

また、万葉の山、恋の丘のあった土地でもあったのです。


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墳頂には小祠があり、参道(上り階段?)入り口には「天神塚古墳」と書かれた木の標が立っているはずなのですが、まだ暑さの残るこの日は、夏草に覆われていて上ることも叶わずで、確認できませんでした。

 

塚に植えられている、目印のような木は桜の木、まわりは公が好きだった梅の木なのだそうです。春には筑波山を背景に、京の姫のような花を咲かせるのでしょう。


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大生郷天満宮、鳥居がこちらをむいているなら、こちらの祠は水海道(大生郷)方面の南西に向いているのだとか(真壁町の民話より)

※確かに祠の南西にあるけど、大生郷の鳥居が、羽鳥に向いてるようには見えなかった💦

昔は言い伝え通りだったのか、私が分からないだけなのか🐍💦

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右大臣という最高の地位にありながら、京を追われ九州太宰府に流され59歳で病没し、はるばる常陸国で葬られた(遺骨の一部だと思いますが)道長公に手を合わせる。

 

三男、景行によって、ここ羽鳥を墳域に定め、菅原天満宮とし、大きな境内に社殿も建てられていたそうですが、畑にするために大部分を削ってしまったとかで、ほんとに小さな塚が忘れ去られたようにポツンと残っています。

京都の北野天満宮より20年も前の、日本で一番古い、菅原道真公を祀ったところと言い伝えられている。

 

空には鳶も翔け、晴れている日には筑波山も間近に望めるここ、羽鳥には、

道真公は三年だけしか鎮まることはなかったのです。


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↓同じく菅原道真が三男、景行が創建した

大生郷天満宮別当寺院だった「安楽寺」です。

太宰府天満宮別当も「安楽寺」でしたね。

 

ニョロ子は、こう思うニョロ🐍🎀

タイトルは、歩きに歩いたと書きましたが、数々の馬場を持っていた将門様と交流があった景行さんなので、馬で移動していたかもですね🐴🐍

 

駿河国に左遷、その後配流が解かれ常陸国府次官として赴任、真壁町羽鳥まで来て墳墓を造り遺骨を納めたが、羽鳥が平良兼のテリトリーだったため飯沼湖畔の大生郷へ移した景行さん。

 

平将門の叔父の平良兼と交流があったり、将門様の弟君、平将平の学問の師とも伝わっている景行さん。

 

その終焉は謎らしいですが、小さな祠が向く先に、道真公の遺骨を収めた大生郷天満宮があるのなら…と妄想も広がるニョロ。

多分、父親譲りの頭脳明晰で、風流な一面をもった人だったのでしょうね。

今はこちらに遺骨はないけれど、にょろ子はここの方がなんか好きニョロ🐍🎀

 

肉親の手で初めて祀った地「天神塚」にお参りされてみてはいががですか?

そばの花咲くこの季節も良いと思います。

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天神信仰の成立 (日本における古代から中世への移行)

 

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「西の沖ノ島、東の浮島」鹿島・香取神宮は、古代の内海に浮かぶ神聖な島「浮島」があったからこそ造られたってほんとニョロ🐍?

はい、にょろ子です🐍🎀
今回は、稲敷市浮島」探訪の続きです。

 

【尾島神社】

御祭神︰大名持乃命(おおなもちのみこと)

配祀神素戔嗚命蛭子大神市杵島姫命五十猛命建御名方命、加具土命、保食神羽黒神社天照大神木花開耶姫、宇迦之御魂神

境内社白山神社(白山姫命)
雷神社(別雷命)


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常陸風土記信太郡「乗浜の里の東に浮島の村あり、居める百姓塩を焼きて業となす、九つの社あり、言も行も謹めり」
九つの社のうちの一社ではないかと云われている神社。


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古墳時代の竪穴式住居跡や掘立柱建築跡、工房跡と土壙を伴い、祭祀用土器と祭祀用石製品が焼け土とともに出土。
裏には住吉造りの建物を想定するような柱穴が沢山ある総柱の跡や、大量の祭祀遺物まで見つかってるところなんです。

 

尾島祭祀遺跡からは、鋤、剣、玉、鏡などが出土、海上交通を妨害する神への捧げ物で、筑波山(磐座)を「奥津宮」、浮島を「中津宮」、鹿島・香取を「辺津宮」とする、宗像神のような航海安全を祈願する磐座信仰が源流ではないかと、以前受講した講座「筑波山信仰の源流をさぐる・塩谷修氏」で話していました。

タダの(もしくは安い)講座はどんどん受講した方がいいニョロよ〜。
私もそんなには参加出来てないけど🐍⤵︎

「尾嶌宮」の文字が印象的
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周囲には、尾島貝塚、5、6世紀の祭祀遺跡などがあって、人々は言動を慎しんでいると書かれている、島全体が神の島で神聖な場所だったようです。
大杉神社からは、こんな感じに見えてたのね。
阿波の「大杉神社之景」
―アンバ大杉信仰より―


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が多分ですけど「尾島社」
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尾島神社は、ほんと細長い浮島の尾っぽの部分に鎮座してる。

またFlood Mapsによる、古代の海面を想像。
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今の地図↓
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↓大杉神社の記事です、暇な時にでも読んでください🐍

境内社
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好きな感じの境内なのですが、とにかく蚊が多い💦
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常陸国風土記をゆく・柴田弘武著」

より引用

縄文時代から土器製塩が行われていたことが前浦遺跡等により証明されている。
また東西約3km、幅約600mくらいしかない小さな島にもかかわらず古墳もかなり存在する。


なかでも原1号墳は自然地形を削り取って前方後方墳をつくったもので、全長32m(一説には29.5)ある。4世紀中(一説には5世紀初頭)という県下でも最古級の古墳であり、副葬品に鉄製品と多数の玉類が収められていて(ガラス製小玉、ガラス製管玉、鉄剣、小剣、鉄槍、鎌、ヤリガンナ、斧、鑿、針など)被葬者はいかなる人出あったか興味をそそられる(出雲系のものといわれている)

 

この島に15戸(1戸30人として450人位と推定)の家があり、塩焼を生業としている。この頃の製塩は縄文時代の土器製塩とは違って、もう少し効率のよい藻塩焼きであった(板来村の条には「塩を焼く藻」とある)その製法は藻を乾燥させて塩の結晶を付着させ、それを海水で流し落として下で受けるという過程をくり返し、塩度の高い濃縮海水をつくり、煎熬して塩にしたのであろうと考えられている。
生業というからには、彼らはそれを他に供給する為に行っていた事が想定される。


現在浮島には東南低地部に尾島神社(857~859)創建と伝わる、中央に秋葉神社、西南台地に姫宮神社があるが当時からのものか分からない。おそらく現在の神社形式ではなく、もっと素朴な祭祀場であったと思われる。

 

※()内の一説には、は他書からの情報です


常陸国風土記をゆく

製塩の遺跡で日本一古いのが霞ヶ浦のこの辺りなんですね、凄いニョロ🐍

 

姫宮神社の記事です↓

百合姫の伝説がメインですが。

 

常陸国風土記の世界・茂木雅博」では、

浮島の祭祀があったからこそ、後に鹿島、香取神宮が出来上がった「浮島があったから造られた」
極端な言い方をすると「西の沖ノ島、東の浮島」と言ってもいいほど重要な島で、農業祭祀では考えられない興味深い遺物が出土している、奈良時代から100年~150年古い祭祀遺物が4か所から見つかっていると書いています。


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3角の右点が「鹿島神宮」左点が「香取神宮」左辺に「尾島神社」頂点に「筑波山

位置的にはこんな感じです〜

だからなんだと言うことでもないのですけど〜。元鹿島と呼ばれる「大生神社」とかあるけど、ここは深く考えない考えないことにするニョロ🐍


常陸国風土記の世界 (市民の考古学)

にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

古代の内海に浮かぶ島だった浮島は、朝廷にとっても東国開拓、その先の陸奥国進出に向けての重要な土地であった一方で、未開の土地(未知の神)への境界の地でもあった。

だからこそ、政(まつりごと)と共に゙祀り事゙も重要だったのだと思う。

尾島神社(大名持乃命)の対岸にあった、大杉神社(倭大物主櫛玉大神)の原初的信仰も、航海安全の神への信仰なので、なにか繋がりがあったのかも知れませんね。


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沖ノ島が「お言わすの島」と呼ばれていた、浮島も「言も行も謹めり」と書かれている航海安全と武運を祈願する、神聖な神祀り島だった土地、もっと注目されてもいい気がしますニョロ。

今は浮いてはいないけど、古代の風景を思い浮かべられる程には、その景色はとどめていると思います。古代妄想に浸りたい方は是非行って見てニョロ🐍

武甕槌命が休息した地に、光る石。この伝承だけで、白飯3杯はいける勢いの妄想ニョロ🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

 

常陸国一之宮、鹿島神宮の御祭神

武甕槌命」が休息されたと伝わる

【神塚神社】をお参りしました。

茨城県東茨城郡茨城町下石崎に鎮座しております。

御祭神︰武甕槌命

(一の鳥居)
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「御由緒石碑より」

下石崎の産土大神と称え奉る神塚神社の御祭神は武甕槌命にて、社伝によれば武甕槌命、東国に下り給いし時、当地に休息せられて仮塚と云い伝えられ、後神塚になったと云う。


社に纏わる一奇説がある。

大同年間、当神社創建の際、武甕槌命の御遺しおかれた小石を安置したところ、夜な夜な光を発し地域民を驚かせた。

あるとき、この小石を盗んだ盗人が下総に逃げて行ったが異光に恐れてか印旛沼に投げ捨てたと云う。

沼の中に光る物があるとの噂に、漁師達がつきとめたところ当社の小石であり、村人これを聞いて早速厳かに迎え大神に詫びを入れたと云われる。

この神石、今も当社に鎮り村の守護に当っている。


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(二の鳥居)

この神塚神社には、四基の円墳で構成されていた神塚古墳群があるとか、今は二基の円墳との事ですが、蚊と戦ってたし、その時は知らなかったニョロ🐍💦
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夕方だったので、ちょっと薄暗い

静かな境内
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なかなかに特徴ある狛犬さん達

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(御本殿)

鰹木が五本、千木が外削ぎf:id:nyorokolog:20191003195435j:image

(茨城町の天然記念物の椎の木・御神木)
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(石造道標地蔵尊)

一の鳥居の前にいらっしゃいます
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後ろには「馬力神」「牛馬供養塔」等
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この三角の頂点に地蔵尊、三叉路ですね
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ここの南に「涸沼(ひぬま)」があります

涸沼から那珂川にかけての一帯が、常陸風土記「那賀と香島との境なる、阿多可奈湖(あたかなのみなと)」とあるところで「平津駅家」が置かれていたのではないかといわれている。

↓Flood Mapsで古代の海面を想像してみます。

阿多可奈湖(あたかなのみなと)と呼ばれていた一帯が見えてくる、涸沼はここにすっぽり収まってます。

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常陸国府があった、石岡の鹿の子で作られた武器、鹿島の塩、食料などを蝦夷討伐の為の補給路、海路としての阿多可奈湖=ミナトを利用し、陸奥国多賀城の最前線まで運んでいた、大串稲荷あたりから塩釜へ。

黒潮を渡っての航海は危険だったので、内海を使っていたのではないかと以前受講した講座で聞いたのを思い出すニョロ🐍


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最後に、神塚神社で咲いていた

彼岸花の写真を…


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にょろ子は、こう思うニョロ🐍🎀

武甕槌命が休息したとの説話が、連綿と伝えられ、残ってることに感動。

これだけで白飯3杯はいける勢いで、蝦夷討伐時代の補給路まで妄想できたニョロ🐍

伝説、伝承はほんと宝物ですね、感謝感謝🐍


闇に葬られた古代史 (じっぴコンパクト新書)

 

 


前方後円墳と東国社会: 古墳時代 (古代の東国)

 

信太流れ海、浮島の悲しい姫の物語「恋をのみ信太の浮島浮き沈み、海女にも似たる神の浪かな」

はい、にょろ子です🐍🎀

佐竹氏に攻められて落城、湖に身を沈めた「小百合姫」の霊を祀った神社を参拝しました(他の伝説も紹介します)

かつて霞ヶ浦に浮かぶ島だった「浮島」に鎮座しています。

 

茨城県稲敷市浮島【姫宮神社】

御祭神︰息長帯姫命

姫の霊を祀っていますが、姫繋がりなのか

息長帯姫命です💦

明治45年6月に、龍崎神社を合祀していますので、扁額は「姫宮神社・龍崎神社」の併記となっています。
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地図で見るとこんな感じで、この辺りの台地は浮島という島でした。

景行天皇行在所跡(浮島宮伝承地)も見えます


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常陸国風土記・信太郡
「郡の北十里碓の井あり。古老の曰へらく、大足日子の天皇浮島の帳の宮に幸、水の供御無し。即ち卜者をして訪占遣め、所所之を穿る。今雄栗の村に存れり」

↓以前訪れた「碓井」の候補地

↓以前訪れた「景行天皇行在所跡」

景行天皇が自分の子である日本武尊に東夷征伐を命じました。

尊はその命を果たし帰路途中の伊勢で病に倒れ亡くなります。

それを知った景行天皇は、追慕の念のあまり征途の跡を巡行され、

その途中でこの地(浮島)に張宮を営まれ30余日滞在し、祈りを捧げた。

この丘を張宮の跡として伝え、地名もお伊勢の台と敬称し今に至っている。

 鳥居を過ぎると、台風の爪痕なのか、倒れた木の石段f:id:nyorokolog:20191003212140j:imagef:id:nyorokolog:20191003212207j:image

登りきると、社殿が見えてきます
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由緒1佐竹氏との戦い

元亀、天正年間この地に騒乱が起こり、

浮島城主浮島弾正は、佐竹氏との戦いに敗れ落城しました。

その時、弾正の子「百合姫」は湖に身を沈め亡くなりました。

この姫の霊を弔うために姫宮神社が創建された。


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もう一つの伝説、由緒2

「小百合姫ロマンス・水郷風土記 中村ときを著より」

保元の乱(1156)の際に崇徳上皇方に加わって捕らえられ浮島流刑となった、平安時代の公卿で歌人藤原教長(のりなが)は、出家、投降して恭順の意を示したが許されず、常陸国信太浮島に配流された。

「日をへても過ぎし都の続きぞと、思う岸辺を今日ぞ離るる」


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流人とは聞いても島の人々は関知しないところ、胸を開いて歓待してくれ

中でも島守は来客のようなもてなし方で、一人娘の百合姫をかしずかせて、何くれとなく面倒を見させてやる。

野に咲いた百合のような姫は、食事はもちろん、洗濯、掃除、身の回りなど細かいところへ気がついて教長を世話してくれる。

権力の争奪にあけくれ、その争いに破れ配所の月を見る身の教長にとって、小百合姫の真心は、汚れた体を洗ってくれるような清涼なものだった。

素朴な田舎の娘の純情は、都の貴公子の心をとらえ、百合姫もまた心から男になびき孤島に恋の花が咲き、やがて彼らは結ばれていった。
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しかし楽しい愛の語らいも永久には続かなかった、都からの便りが教長の赦免をもたらしたからである。

「こうなったからには、私は永久にそなたとこの島に住み着く、そなたと共に…」

と言い続けていた教長も、一度赦免が出たとなると心は島を離れて都の空に飛んでいく。

「一度帰って、きっと島へもどってくるから…」といえば「お帰りになられたら、もうそれきりになるのでは…」かきくどく姫も慰め遂に都へもどっていった。

 

信じて待ったが、恋しい人は戻ってこなかった。

月日がたつにつれ姫の心は恋しさで狂いそうになる、暇があると高台に上って都の方だと教えられた南に向かって教長の名を呼び叫び、浮き沈みする胸を抱いて嘆き悲しんだ。

どんなに呼べど叫べど恋しい人はこの島に帰ってこない、ふらふらと高台を降り波に足を浸し深みに入っていった。

腰から胸へと海水が濡らしてきたが、姫の心は何も感じなかった、ただ一筋に教長に向かい、この湖を超えていけば愛する男のいる都へ行けるきになっていた。

やがてうねってきた高波が姫の頭から飲み込み、そして引いたあとには姫の姿はなくなっていた。

島守と島民は探し回ったが、波に漂う小袖だけをみつけ「袖が浦」と名付け

姫の霊を慰めるために、彼女が立ち尽くしていた台地に祠を設けて「姫宮神社」とした
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百合姫」を祀る姫宮らしく、ピンク色の本殿が印象的で目に鮮やか。

と思ったけど、千木は外削ぎ、鰹木は三本で男神の仕様でした。

一般にですけど、千木が垂直に削ってある「外削ぎ」で「鰹木が奇数」なのが男神

千木が水平に削ってある「内削ぎ」で「鰹木が偶数」なのが女神。

例外もあるし、本庁は、必ずしもそうとは限らないとしているそう。

 

現在の本殿は、明治45年6月に龍崎神社を合祀する際に、社殿を移して本殿としたもので、昭和6年の建立と伝わってるとか。

だから男千木なのかしらん?ニョロ🐍

 

 にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

「小百合姫」で思い出すのは、私が古代好きになったきっかけ「銀の海、金の大地・氷室冴子さん」の登場人物の「小由流(さゆる)」

たしか東国のことばで小百合を表す名前の、一途で、心が強く、優しくて、でも危うい女の子。

 小由流の母親が、訛りのある言葉で東国の昔語りをしてくれる

「湖の上を渡る風のように涼しげな声が好きだった」

この、霞ヶ浦を想定して書いただろう文章が

また素敵で、氷室冴子さんに哀悼の意を捧げたい。

 結局「都の男は当てにならないわよ全く」

と言いたい。にょろ子私情🐍🎀

 

 

 

水郷風土記 (1981年)

水郷風土記 (1981年)

 

 


『常陸国風土記』入門ノート―風土記ロマン 読む歩く見る

天狗になった「常陸坊海尊」👺

はい〜続けてにょろ子です〜🐍🎀

先日訪れた「安穏寺」を御紹介しながら、常陸海尊👺のお話を書きたいと思います。

 

 

常陸海尊」とは

源平盛衰記や、義経記平家物語などに登場する「海尊常陸坊」という名で書かれている、園城寺または比叡山の僧であったとされるお方。

 

 茨城県稲敷市【安穏寺】

「日本で唯一の夢叶え大明神」といわれる「大杉神社」のお隣にひっそりとあります。


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「大杉神社ホームページより引用」

文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は御眷属としては烏天狗のみとしておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。

 

大杉神社の守護の為に、延暦24年(805年)に創建、明治頃までは安穏寺が大杉神社の管理をしていたそう。

常陸海尊は、神仏習合となったこの地を訪れ僧となり、多くの奇跡を起こし人々の願いを叶えた。


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この安穏寺の入口階段左側に「安穏寺」の石柱があり、地元では「かいぞんさま」と呼ばれ信仰され、右側には「常陸坊海存」の石柱が建てられています。

 

「茨城の民話Wedアーカイブより引用」

常陸坊海存というのは、武蔵坊弁慶と同様に源義経の郎党と言われる,

謎に満ちた人物で、数々の伝説が伝わっている。

義経が奥羽平泉で追手と僅かな兵で戦っていた時、仲間の十一人の者と

戦に加わらず近くの山寺に行っていたと伝わっています。

 

 

この山寺に行っていた件が、義経一行が難題に直面した際に、常陸坊はいち早く姿を消す(常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せりにけり)とあるように、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまう、卑怯者といわれる所以。

 

「常陽藝文2019年8月号」には

"その先のことを考えての行動のように見える”

"海尊は信仰の対象とされて、人間ではなかった” 

・各地の山に仙人となって住み、長命の理由として人魚の肉を食した。

 

"伝説の中で生き続けた義経には、伝説を補強する存在が必要で、その存在が「常陸海尊」だった。

 

大杉神社の神が常陸海尊の姿になって現れたとの記述から、海尊そのものが神であるとの信仰も生れ、大杉の神と同一とする信仰が生れ天狗信仰と結びついたとしている。

 

 

↓航海安全、疫病除け、天狗信仰になった大杉神社の記事です。

興味がございましたらどうぞニョロ🐍

 

 

 

nyorokolog.hatenablog.com

 

 

 

難しい理由は「あんば信仰、大杉信仰」といわれる疫病除け、疱瘡除けの信仰の他に、船の航行安全の神としての側面があるから。

 

「茨城の民話アーカイブより引用」

江戸からの下り荷を積んだ高瀬舟利根川の難所の一つ「早瀬のうず」に差しかかったときに「かまいたち」と呼ばれる竜巻が近づいて来た。

 

子供の松吉には、セジの中に入って大杉の天狗さまに祈るよう命じました。

セジには神棚があり、水上安全の神さまである大杉神社の御札が納められていたからです。

すさまじい強風が船を襲い、そのとき、突然、松吉の流れ行く先の水がぐんぐんせり上がりはじめました。驚いて上を見やると、山伏姿の天狗が宙に浮いていた「松吉、溺れながらも荷物を守り続けるとは感心な子だ。小さいながらも船頭の鑑じゃ。

わしが竜巻を鎮めてやろう。」

天狗が差し出した長い棒を松吉がつかむと同時に風はぴたりと止み、波もおだやかな状態にもどっておりました。天狗に助けられた松吉はその後、感謝の気持ちを持ち続け、利根川一の船頭になったのだそうです。

 

 

巻第四「住吉大物二カ所合戦の事」には

常陸坊は元より究竟の楫取り(舵取り、かじ取り)なりければ。

とあるところに注目すべきであると言う。

 

これらを読むと、水上安全(航海安全)の神さまが天狗👺だと思っていた事が分かる。

 

もうひとつ紹介

下妻市大串【常陸海尊之祠】

場所は筑波山がよく見える、かつて大宝沼の畔の台地だったと思われる土地。


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「常陽藝文より」

大串地区の伝説

海尊は、平家全盛時代に源氏再興の企てをして敗れ、大宝八幡宮の近くに当時存在した「大宝湖」で舟夫となって隠れていた。

やがて源義経らの、平家を相手にした戦いに参加して武勲をたて、義経が流浪の旅を続けた時も行動を共にし「晩年は大串に帰来して没した」と伝えられている。

海尊の「誕生地」には、樹齢800~900年の「海尊杉」がそびえ、大宝八幡宮に参拝する人の目標とされていたかが明治の初めに伐採された。

 


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祠の中には、板碑が二基、金色の御幣が三体あり天狗のミニチュアが置かれていました。

板碑は「海尊杉」がある所にあったのだそう、この「常陸海尊の祠」は個人の敷地にあって「かいぞんさま」と呼んで、代々大切に守り伝えられているそう。

ほんとに今でも手厚いお祀りをしているのが分かる。

何故か、下妻市が誕生地で大串で亡くなった事になっている、天狗👺になった「常陸海尊」様に手を合わせる。

 

ついでに以前に参拝した

【足尾神社】

御祭神︰国常立尊、面足尊、惶根尊

 

 

文治年間(1185年~1189年)の初め頃、源義経の家臣・常陸海尊が足尾山に籠って荒行を行ったといわれ、以来、「足尾山大権現」の霊山として修験道の修行道場として広く知られるようになりました。

 

この山で修行した修験者が諸国を巡り、足尾神社が足病に御利益ありと広め、治癒を祈願し、草鞋や草履を奉納したそうです。

今は靴が奉納されていました。


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まだ新しめの社殿、下の方は花崗岩でできている、両側の袖部分に天狗のリレーフ(浮き彫り)があります、常陸海尊👺でしょうか。


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という事で、にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

 

古代からあった「あんば」地名と航海安全の信仰が根付き、疫病除け信仰となり、常陸海尊の天狗伝説も加わった。

疫病除けの「あんば大杉信仰」「航海安全の信仰」は、利根川荒川水系を経て広まり、足尾神社の修験者が「常陸海尊」を全国に広めた。

各地で大切に伝えられている物語や、下妻市大串の個人宅敷地にある祠を見ても、

私は「常陸海尊」を卑怯者とは思いたくないニョロ🐍 

今回は↓こちらの「常陽藝文8月号」と

常総の歴史「第29号」を参考にさせていただきました。


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2019年12月7日(土)~22日(日)(12月7日(土)・8日(日)はプレビュー公演) KAAT 神奈川芸術劇場<ホール>にて上演される舞台『常陸海尊』があるんですね。

この機会に勉強してみるのも良いかも。


常陸坊海尊・かさぶた式部考―現代日本の戯曲 (講談社文芸文庫)

「あんば大杉神社」から「天狗👺になった常陸坊海尊」に繋げるニョロ🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

今日は、先日参拝した茨城県稲敷市、大杉神社を写真を載せながら、つらつら書きたいと思います🐍ニョロ。

 

 

稲敷市・阿波【大杉神社】

主祭神︰倭大物主櫛甕玉大神(やまとのおおものぬしくしみかたまのおおかみ)
配祀神大己貴大神(おおなむちのおおかみ)
               小彦名大神(すくなひこなのおおかみ)


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「大杉神社略縁起」

僧の勝道上人が下野国日光への道中、当地を訪れ巨杉を神籬として三輪明神(大神神社)を鎮斎し、人々を数々の奇跡で救済したことから「悪魔ばらえのあんばさま」と信仰されるようになった。創建は767年。

三輪明神さまとは、あの有名な奈良の大神神社ですね。

勝道上人は、ご存知のように奈良時代から平安時代初期にかけての僧で日光山を開山された方です。


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正徳年間の造営の時、既に社殿群は「あんば日光」の異名を持つ絢爛豪華な造りだったそう。

今は「茨城の日光東照宮」とも言われ「あんば参れば、日光見るに及ばず」とうたわれました。


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「以下、大杉神社ホームページより引用」

宝暦年間に存在した社殿群は当時の記録から本殿、拝殿、唐門を5つ取り付けたとみられる透塀をともなった社殿のほかに、神楽殿、神輿舎、回廊、楼門、唐門、総門、土蔵六棟などがみられます。また安穏寺関連の建造物としては他に弥勒堂、護摩堂、仁王門等も存在したことが知られてます。中でも楼門は麒麟門と称されていたようで、日光の陽明門を彷彿させる威容を誇っていたとされております。
 平成22年3月27日、二階建ての楼門「麒麟門」が完成します。本殿、幣殿、拝殿を繋ぐ県内最大の複合社殿への正面入り口として、約280年ぶりに再建。「麒麟門」は当時の文献から櫻井瀬左衛門を棟梁に、嶋村円鉄が彫刻を担当した豪奢な門であったことがわかり、これにならって麒麟、飛竜、獏、獅子など檜や楠材を使った200体以上の彩色豊かな彫刻が施されました。

 

 

正直に言うと、にょろ子はキラッキラの派手っ派手は目がチカチカして成金っぽいイメージで苦手ニョロ🐍💦

でも、昔から豪華な社殿だったんですね、歴史をちゃんと知れば好きになれるニョロ🐍


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鳥居に向かって右側にいらっしゃるのが「カラス天狗(かない天狗)」左側が「鼻高天狗(ねがい天狗)」

神社ではもともと、カラス天狗を御眷属として崇めてきましたが、文治年間に鼻高天狗がやってきて数々の奇跡を起こして人々を救ったことから、カラス天狗と鼻高天狗を陰陽一対として祀るようになったのだとか。

人々を救ったとされる「鼻高天狗」様が、次のブログ更新で紹介する予定の「常陸海尊」なのだそう。

海尊の容貌は、巨体、紫髭、碧眼、高鼻👺

羽団扇の紋が輝いてる
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「阿波(あんば)」の地

「以下はWikipediaより」

常陸国風土記』には、阿波の一帯を示すと考えられる地名として、信太郡の条に「乗濱」行方郡の条に「安婆之嶋」が登場する。

 

神社ウェブサイトの「大杉神社の歴史」によれば「あんば」の地は律令制以前の国造制下において菟上之国(海上国)に属し、「大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社」だったという。

 

上古、阿波が属する台地は「信太流海」(霞ヶ浦の西浦)と「榎浦流海」(利根川流域の低地部に広がっていた内海)に突き出た半島で、その北東部に離れて「浮島」があった。阿波は阿波崎と須賀津に囲まれた内湾(霞ヶ浦の甘田入)の奥部に位置していた。この地にある巨杉が、漁民の守護神として信仰されるとともに、内海(香取内海又は常総内海)の航路標識になっていたという。

 

常陸国風土記行方郡の条にある建借間命の国見の記述に登場する。建借間命は「安婆之島」に宿営して、遙か海東の浦に烟を見つけ、天人の烟ならば我が上を覆え、荒賊の烟ならば海中に靡けと誓約をしたところ、海を射して流れたので凶賊(国栖)がいることを知った。―引用終わり―

 

 


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現在の利根川霞ヶ浦一帯がまだ広大な入り海だった時代「あんば」と呼ばれたこの地は半島状に突き出たところだった。

平安時代の初め、神社に別当寺の「安穏寺」が開かれ、神仏習合し一体となった祭祀が始まる。

↓「常陽藝文2019、8月号より」

 

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古事記で「天穂日(アメノホヒ)命の子、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)は、出雲国造、无邪志国造、上莵上国造、下莵上国造、伊自牟国造、津島縣直、遠江国造等の祖」

とあり、出雲国造と同系で出雲系なのですかね。

 

「稲荷神社」
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稲荷神社は、最勝立身出世稲荷神社ともいわれています。が、今回の参拝では台風の爪痕なのか、大きな木が倒れていて「立ち入り禁止」となっていて参拝叶わぬでした⤵︎

 

勝馬神社も稲荷神社の先に鎮座されている為、望遠で失礼させていただきました。

 

「大杉神社ホームページより引用」

縁起によれば貞観四年(862)信太の馬牧(現在の茨城県稲敷郡美浦村信太付近にあったとされる朝廷の官牧)の中に馬櫪社(ばれきしゃ)と呼称された馬体を守護する神社が存在しておりました。その後馬櫪社は稲敷市幸田に遷され、さらに大杉神社の境内に遷されました。昭和初期までは大杉神社の馬場で毎年4月8日に競馬が開催され、100頭の馬たちが出走しておりました。
現在は日本中央競馬会JRA)の美浦トレーニングセンターが近くにあることもあり、騎手、調教師、馬主等の競馬関係者をはじめ競馬ファンの参拝者が訪れる。


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大杉神社は「疱瘡除け」疫病除けの神でもある、江戸中期にその信仰は拡大し、航海安全の信仰もあった為、利根川荒川水系の船運業者や太平洋沿岸の漁民からも信仰されていたのだという。

 

最後に癒しのにゃんこ画を

大杉神社にはこんな感じで、にゃんこがたくさんいます。にょろ子も大好きニョロ🐍♪
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という事で、にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

「あんば」という地名は遥か古代からあった、当時は社殿なんかはなくて、大きな杉の木に神の降臨を見て、航海安全を祈りお祀りしていた。

その後は常陸国編入し、信太の流れ海としての海域に、香取の舵取り(航海安全)と、疫病を防ぐ信仰となり、常陸海尊の天狗伝説も加わり「航海安全」「疫病除けのあんば信仰、大杉信仰」となったのではないかニョロ🐍

派手派手な社殿に引き気味にならないで、土地の歴史と物語を見て欲しいニョロ🐍

 

毎日ブログを更新してる人って、ほんと凄いですね💦にょろ子は無理💦

 

 

むかしむかし鹿島神宮の社殿は「栗の木」をつかっていた

こんばんは、にょろ子です🐍🎀

今年三度目の「栗ごはん」を炊いて、会社のお弁当にも持ってきいました。


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「だし」は液体だしの「丸ごと根だし」を使いました、炊飯器に適量、塩をお好みの量入れてスイッチオンでホクホク美味しい「栗ご飯」の出来上がりです。

 

我が家の庭には「みかん」「杏(あんず)」「タラの木」「梅の木」「桜」「モンキーバナナ」「コブシ」「蝋梅」あと「栗の木」etc.....があるのです。

 

なので栗ご飯、栗の甘露煮、タラの芽の天ぷら、梅干しが原料代がかからずに作れます。

みんな羨ましがるけど、毛虫とか虫が多くてそこがいや(><)

栗は縄文の昔から食料や、木材として利用されてきたんですね。

成長が早、毎年ちゃんと実をつける、栗の木は腐りにくく割りやすいので、加工がしやすかったみたいです🌰

 

 突然「茨城の史跡と伝説」より引用

東茨城郡常北町(旧西郷村)は朝房山の北麓一帯をしめ、和名抄にいう那賀郡鹿島郷の地に当たり、大字古内は朝房山の古名フジフジの名残りといわれている。
ここらあたりを鹿島郷と名付けたわけは、二十年目ごとに造営する定めになっている鹿島神宮修造の材木を伐り出す。
”宮材之山”であるからである。六国史の中に三代実録貞観八年正月の条下に
「是より先、常陸国鹿島神宮司云ふ、鹿島大神宮惣六箇院、二十年間に一度修造を加ふ、所用材木五万余枝採造する宮材之山は那賀郡に在り、宮を去る二百余里(六町一里)行路険峻、挽運の煩ひ多し」とあり、五万余枝の宮材というのは栗材である。
鹿島は空気が多量の塩分を含んでいるので、栗材でないと二十年は保てない。
それで遠隔地であり、道も険悪であるが、栗の木が多いこの地方が、”宮材之山”に選ばれたわけである。

とあります、常陸国一宮「鹿島神宮」の社殿には栗の木が使われていた時代があったんです。

鹿島の里(鹿島郷)と呼ばれていたあたりは、現在の「城里町」上古内あたりだとされています。

鹿島大明神は、奥州塩釜から金の鷲に乗って初めて常陸国へきて、その天降った地が「古内山」と伝えられている。

後日、この古内山の鹿島神社をたずねたいと思っています。

「鹿島の郷」と呼ばれていただけあって、鹿島神社が多い土地でした、以下は以前参拝した、近辺の「鹿島神社」です。

では、ではニョロ🐍🎀

九尾の狐(玉藻の前)殺生石に昨日も訪れました。

はい、にょろ子です🐍🎀

九尾の狐、玉藻の前」のお話と、その伝承地を。

ちょうどゲゲゲの鬼太郎でも放送していましたニョロ🐍
温泉神社は昨日参拝の写真
吉田八幡神社2017年5月参拝の写真です(※)

 

 

 

その前に簡単なあらすじ


中国、天竺を経て日本にやってきた九尾の狐は「玉藻の前」という絶世の美女となって鳥羽上皇の前に現れ、寵愛を受けるが、陰陽師の(安倍泰成 、安倍泰親、安倍晴明)に←ここは混同されている。

妖怪であることを見破られた玉藻の前は、九尾の狐の姿を現し、辰巳の方角に姿をくらまして都から逃れ、下野国那須野で娘に姿を変えると、十念寺の和尚をたぶらかして食べてしまいました。
その噂を聞いた那須野領主の要請を受け、鳥羽上皇陰陽師安部泰成を軍師として、三浦介義明と上総介広常を将軍にし、8万の軍勢を集め、那須野に「九尾の狐」退治の為に派遣しました。

 

だが、九尾の狐の術に翻弄され、軍勢の多くは戦力を失い、追い詰められてしまいますが、ついには射殺され、霊は石と化して近寄る人や鳥獣を殺す殺生石(せっしょうせき)になった。

九尾の狐が化身したといれる大きな岩の周辺では、硫黄の香りが漂う異世界な風景がありました。

殺生石
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殺生石は温泉の出づる山陰にあり、石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す―

「石の香や  夏草赤く  露あつし」

 

ある日の事、ここを通りかかった玄翁(げんのう)和尚が、殺生石と化した玉藻前(九尾の狐)の魂を鎮め、大きな金槌で石を叩き割り、妖狐の精魂は散滅させられた。

この大きな金槌はその後「ゲンノウ、ゲンノー」と呼ばれるようになった。
この時のかけらは、全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したという。

 

「千体地蔵」

まだ編んだばかりの赤い被り物が、彼岸花のように鮮やかでした、大事にされてるんですね。


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ちなみに↓は7月にお参りした時の写真

雨の参拝も好きニョロ🐍


はにわ(にょろ子🐍🎀) on Twitter: "那須・温泉神社 御祭神︰大己貴命・少彦名命 相殿︰誉田別命 昨日は、久々に家族でお参り 霧雨に煙る境内が、神秘的でした。 神社に靄はなぜこんなにも似合うの… "


はにわ(にょろ子🐍🎀) on Twitter: "「九尾稲荷大明神」 九尾の狐さんは「天下泰平の時代に現れる」瑞獣ともされてるんですよね、天下泰平になりますように。 アーモンドみたいな九尾って、娘が言った。なるほどー。… "


はにわ(にょろ子🐍🎀) on Twitter: "殺生石、千体地蔵も霧雨に濡れてた 「なすの原の露と消えても なほ執心はこの野に残って、殺生石となって人を取ること多年なれども今遭ひがたき御法を受けて…ナンチャラカンチャラ」… "

あとの詳しい話は、お狐様クラスタの方にお任せ致しまして神社のほうを。

 

那須・式内 温泉神社
御祭神︰大己貴命少彦名命誉田別命

ご由緒︰第三十四代舒明天皇の御代に、狩ノ三郎行広という人が、白鹿に矢傷を負わせ、追って行くと元湯付近に至った。

すると岩上に白髪の老翁あらわれて「吾は温泉の神なり、汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり,その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞きて万民の病苦を救うべし」 と言って消えた。三郎は温泉に浸かって矢傷を癒している白鹿を見て温泉を発見し、社を創建し射止めた鹿角を奉納したといわれてます。


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神をお祀りして、白鹿を奉納、ただの狩人ではなさそうな。

温泉神社境内社九尾稲荷大明神」】


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御朱印

今回は拝受しました、ありがとうございました。
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常陸大宮市・吉田八幡神社】※2017年5月参拝時写真

御祭神︰日本武尊誉田別尊

1155年、九尾の狐退治のために派遣された相模国三浦大介義明が、下野国那須野に金毛九尾の悪狐退治に行く途中にこの神社に参拝し「我冥護により能く悪狐を獲ば此の杉天にそびゆくべし」と武運を祈願し、無事に退治することができたため、杉の木を神社に奉納したという。


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杉の巨木の参道


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この話しを聞いた水戸光圀が、この杉の木を「三浦杉」と名付け、それ以来神社の御神木として守られてきたのだとか。

樹齢、約850年、高さ約58m、幹周り約10mの大杉。さすがの貫禄でした。


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御神紋は「扇紋」

屋根に鬼😈さんがいらっしゃる。

私が参拝した当時は、倒木、枝の落下等の危険がある為、社殿近くまでは行けませんでした。立ち入り禁止の柵の前(遥拝所)にてお参り、九尾の狐伝説に思いを馳せて。


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こんな感じの参道が大好きな蛇🐍です、木々を揺らす風が吹いた時、神様に歓迎されていると誰かが言ったっけ。

 

にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

 九尾の狐さん、狐さん、狼さん好きな方で、その好き好き度が物凄い方がいらっしゃる、なのでサラッと書いて、あとはその筋のかたの記事を調べていただくのが一番だと思うのでこういうときはサラッと書くと決めてるニョロ🐍


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