にょろ子ログ

神社に伝わる伝承、伝説、民間信仰、祭りが好物な蛇🐍

怨霊と呼ばれた平将門公も、古代の合コン、嬥歌、歌垣(かがい、うたがき)で恋を語り合ってたニョロ〜!!歴史の欠片が残ってれば妄想蛇は生きて行けるニョロ🐍

はい、にょろ子です🐍🎀

真壁探訪の続きです、同じく羽鳥に鎮座する

 

「歌姫明神」も参拝しました

うたずめ明神)と読みます、ちょっと読めないですよね。


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筑波山北側から延びる、羽鳥道から少し左に入った丘、そこは歌姫山(うたずめやま)と呼ばれていました。

 

万葉集や、常陸国風土記に載る「歌垣」が行われた場所の候補地の一つとなっています。

 

常陸国風土記より】

「坂より已東の諸国の男女、春は花の開ける時、秋は葉の黄づる節、相携ひ騈闐り、飲食を齎賫し、騎に歩に登臨り、遊楽び栖遅へり。其の唱に曰はく、筑波嶺に会はむと云ひし子は誰が言聞けばかみ寝会はずけむ、筑波嶺に廬りて妻無しに、我が寝む夜ろは早も明けぬかも詠へる歌甚多くして、載車るに勝へず」

 

都から、常陸国に赴任した高橋虫麻呂さんも歌を詠んでいます。

「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津もはきつの その津の上に 率(あども)ひて、未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集ひ、嬥歌(かがい)に 人妻に 吾も交はらむ、吾が妻に、人も言問(ことと)へこの山を 領うしはく神の 昔より 禁いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎とがむな」

反歌男神(ひこがみ)に 雲立ち登り しぐれ降り 濡れ通るとも 我帰らめや」

 

(訳)

鷹が住むほどに険しい筑波の山の、裳羽服津(もはきつ)の、泉のほとりに誘い合い 男女が集まって、遊ぶ歌垣(かがい)で 人妻に、私も言い寄ろう 私の妻に、他人も言い寄よりなさい、この山を支配している神様が 昔からお許しになっていることなのです。

今日だけは、人が言い寄ることを痛々しいなどと思って見てくれるな。 

また、私が言い寄よることをとがめるな。
(反歌訳)
筑波の男体山に雲が立ち登り、しぐれが降って、着物が濡れても、私は帰りはしない。

万葉集巻九・高橋虫麻呂

 

 お互いに気に入った者を見つけては、歌を交わしていたんですね。

古代の男子は歌がよめなければ、モテなかったのかもニョロ🐍

 

あの「平将門」様もここで、真壁郡大国玉の豪族、平真樹の娘君姫」と恋を語らい、妻にしたと伝わっているそう、昭和55年放送の「風と雲と虹と」では、平良兼の娘桔梗姫」だったんですね。(真壁町史より)

 

↓大国玉の「后神社」の記事です

君の前、君子」ともされている

「后」の文字が印象的でした。

 

羽鳥では昔、毎年二月一日に、男根をかたどった御神体を中心に、

3日、4日間も歌い踊る祭事「大同祭」が行われていたそうで、

歌垣の流れを汲んでいるとの説ある。

ここが風土記万葉集に登場する場所の候補とされるのも頷けるニョロ。f:id:nyorokolog:20191021212938j:image

この歌姫山(うたずめやま)の上に、住吉明神、菅原明神が合祀された「歌姫明神」

が鎮座しており、

入り口近くの草むらの中に、菅原道真供養碑が立っているそうですが、

風化が激しく判読できないもので、高さは80センチとの情報があったので、

こちらかなと思いましたが、不確か(真壁町史にもネットにも情報なしの為)

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供養碑には、明治44に発見された時は、こう書かれていたそうです。

【延長四年四月二十五日、常陸羽鳥 菅原神社所、為右菩提供養也、建菅原景行

源護兼平良等共也】

先日、菅原道真の「天神塚」を紹介しておいて何なんですが、景行さんが常陸国で最初に遺骨を納め、菅原神社を祀ったのはここ、歌姫明神(歌姫神社)だ!!説を出している方もいらっしゃいます。

 

菅原神社」と書かれていた供養碑がここにあって、秘伝として「天神塚には、骨など一切埋められていない」と代々当主に伝わっているという事なのどを考えると、

そうなのかも知れないと思ってしまう🐍💦

↓「天神塚」の記事です
nyorokolog.hatenablog.com

 

位置的にはこんな↓感じで「天神塚」と「歌姫明神」は950m程しか離れていません。

羽鳥道沿いには「筑波嶺の峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて淵となりける」

の「男女川(みなのがわ)」も流れている。

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さて、参道です

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途中の巨石
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少しづつ小さな社殿が見えてきます


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扉に刻まれているのは、菅原道真なのだそうです。


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↑社殿の左後方のこちらの祠が、

何故かとても気になりました。なぜでしょ。

もしかして、こっちが供養碑?

 

暦の上では「秋🍁」筑波山から吹く風が、時々歌姫山を吹き抜け、春と秋に行われた「嬥歌」を妄想するには、十分な雰囲気でした。

 

ただ、嬥歌の地の有力候補が他にありまして〜。

そこは「裳萩津(もはきつ)」という「裳羽服津(もはきつ)」と同じ読みの、筑波山中腹に広がる「夫女ヶ原」と呼ばれる「男女ヶ石」が鎮座するところなのです。

 

↓巨石、磐座好きな にょろ子はもちろん行ってますニョロ🐍♪「夫女ヶ原」

縄文時代中期の遺跡や、土師器や須恵器も出土している、筑波の男ノ神、女ノ神が間近に望める、いかにも嬥歌があったっぽい場所でした。

標高715mの地点ですが、裳萩"津”とあるように、古代には水が流れ込んでいた土地のようです。近くには金色姫伝説に登場する「豊"浦”」地名もありますね。

↓田植えが済んだばかりの「豊浦」辺りからの風景「逆さ筑波山」がこの時期だけ見られます〽
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 にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀

住吉明神と和歌」で思い出すのは、陸奥側の「境の明神」に「玉津島神社(女神・衣通姫)」を祀り、下野側の「境の明神」に「住吉神社(明神)男神中筒男命」を祀っていた事。

それぞれ国境の神・和歌の神で、女神は内側(国を守る)男神は外側で、外敵を防ぐ信仰で、陸奥・下野ともに自らの側に「玉津島を祀る」って説。

 

嬥歌の地に、和歌三神のうちの二神が祀られているのは不思議ではないけど、

嬥歌が行われていた場所は山頂、川、海など「境界」の地が多いのだそう。

厳しい冬の寒さが終わり、春になると 人々は豊穣を筑波の二神(ふたかみ)の山に祈り、秋には実りを与えてくれた事を、飲食物を大量にお供えし自らも食す、神人共食を行い、歌い踊り、感謝する。

男女の交わりの祭り(祀り)は、道祖神に見る、性信仰、境界神、五穀豊穣を祈る信仰にも重なって見えた。

 

景行さんが最初に 父、道真公の遺骨を収めたとされる場所や、嬥歌が行われていた場所も、時の流れの中で、この辺りというだけで、ピンポイントでは はっきりとは分からなくなっている。

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でも、あんな昔の言い伝えが 親から子へ、子から孫へと脈々と繋いで来たことが凄い事、京都や奈良、東京など、歴史的にも有名な場所で記録に残りやすい所ならいざ知らずよ。

 

歴史的事実や歴史的場所は、遡るほどにハッキリせずに曖昧で、想像が広がる。

だからこそ、こんな好きだけで行動してる

にょろ子のような蛇🐍🎀でも、楽しく妄想出来るニョロ🐍

ここでは、嬥歌の風景を想像しました。

周りの景色をその時代に変えて、自然の音に耳をすませ、完全妄想参拝するのが、

にょろ子流のお参りニョロ🐍🎀テレテレ💦

 

ココ最近は忙しくて、更新もなかなか出来ないニョロ。

こんな蛇🐍のブログを読んで下さる

奇特な人、ありがとうございますニョロ🐍🎀