天狗になった「常陸坊海尊」👺
はい〜続けてにょろ子です〜🐍🎀
先日訪れた「安穏寺」を御紹介しながら、常陸坊海尊👺のお話を書きたいと思います。
- 「常陸坊海尊」とは
- 「大杉神社ホームページより引用」
- 「茨城の民話Wedアーカイブより引用」
- 「常陽藝文2019年8月号」には
- 下妻市大串【常陸坊海尊之祠】
- 【足尾神社】
- という事で、にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀
「常陸坊海尊」とは
「源平盛衰記や、義経記、平家物語などに登場する「海尊、常陸坊」という名で書かれている、園城寺または比叡山の僧であったとされるお方。
「日本で唯一の夢叶え大明神」といわれる「大杉神社」のお隣にひっそりとあります。
「大杉神社ホームページより引用」
文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は御眷属としては烏天狗のみとしておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。
大杉神社の守護の為に、延暦24年(805年)に創建、明治頃までは安穏寺が大杉神社の管理をしていたそう。
常陸坊海尊は、神仏習合となったこの地を訪れ僧となり、多くの奇跡を起こし人々の願いを叶えた。
この安穏寺の入口階段左側に「安穏寺」の石柱があり、地元では「かいぞんさま」と呼ばれ信仰され、右側には「常陸坊海存」の石柱が建てられています。
「茨城の民話Wedアーカイブより引用」
常陸坊海存というのは、武蔵坊弁慶と同様に源義経の郎党と言われる,
謎に満ちた人物で、数々の伝説が伝わっている。
義経が奥羽平泉で追手と僅かな兵で戦っていた時、仲間の十一人の者と
戦に加わらず近くの山寺に行っていたと伝わっています。
この山寺に行っていた件が、義経一行が難題に直面した際に、常陸坊はいち早く姿を消す(常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せりにけり)とあるように、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまう、卑怯者といわれる所以。
「常陽藝文2019年8月号」には
"その先のことを考えての行動のように見える”
"海尊は信仰の対象とされて、人間ではなかった”
・各地の山に仙人となって住み、長命の理由として人魚の肉を食した。
"伝説の中で生き続けた義経には、伝説を補強する存在が必要で、その存在が「常陸坊海尊」だった。
大杉神社の神が常陸坊海尊の姿になって現れたとの記述から、海尊そのものが神であるとの信仰も生れ、大杉の神と同一とする信仰が生れ天狗信仰と結びついたとしている。
↓航海安全、疫病除け、天狗信仰になった大杉神社の記事です。
興味がございましたらどうぞニョロ🐍
難しい理由は「あんば信仰、大杉信仰」といわれる疫病除け、疱瘡除けの信仰の他に、船の航行安全の神としての側面があるから。
「茨城の民話アーカイブより引用」
江戸からの下り荷を積んだ高瀬舟が利根川の難所の一つ「早瀬のうず」に差しかかったときに「かまいたち」と呼ばれる竜巻が近づいて来た。
子供の松吉には、セジの中に入って大杉の天狗さまに祈るよう命じました。
セジには神棚があり、水上安全の神さまである大杉神社の御札が納められていたからです。
すさまじい強風が船を襲い、そのとき、突然、松吉の流れ行く先の水がぐんぐんせり上がりはじめました。驚いて上を見やると、山伏姿の天狗が宙に浮いていた「松吉、溺れながらも荷物を守り続けるとは感心な子だ。小さいながらも船頭の鑑じゃ。
わしが竜巻を鎮めてやろう。」
天狗が差し出した長い棒を松吉がつかむと同時に風はぴたりと止み、波もおだやかな状態にもどっておりました。天狗に助けられた松吉はその後、感謝の気持ちを持ち続け、利根川一の船頭になったのだそうです。
巻第四「住吉大物二カ所合戦の事」には
常陸坊は元より究竟の楫取り(舵取り、かじ取り)なりければ。
とあるところに注目すべきであると言う。
これらを読むと、水上安全(航海安全)の神さまが天狗👺だと思っていた事が分かる。
もうひとつ紹介
下妻市大串【常陸坊海尊之祠】
場所は筑波山がよく見える、かつて大宝沼の畔の台地だったと思われる土地。
「常陽藝文より」
大串地区の伝説
海尊は、平家全盛時代に源氏再興の企てをして敗れ、大宝八幡宮の近くに当時存在した「大宝湖」で舟夫となって隠れていた。
やがて源義経らの、平家を相手にした戦いに参加して武勲をたて、義経が流浪の旅を続けた時も行動を共にし「晩年は大串に帰来して没した」と伝えられている。
海尊の「誕生地」には、樹齢800~900年の「海尊杉」がそびえ、大宝八幡宮に参拝する人の目標とされていたかが明治の初めに伐採された。
祠の中には、板碑が二基、金色の御幣が三体あり天狗のミニチュアが置かれていました。
板碑は「海尊杉」がある所にあったのだそう、この「常陸坊海尊の祠」は個人の敷地にあって「かいぞんさま」と呼んで、代々大切に守り伝えられているそう。
ほんとに今でも手厚いお祀りをしているのが分かる。
何故か、下妻市が誕生地で大串で亡くなった事になっている、天狗👺になった「常陸坊海尊」様に手を合わせる。
ついでに以前に参拝した
【足尾神社】
御祭神︰国常立尊、面足尊、惶根尊
足尾神社、
— はにわ(にょろ子🐍🎀) (@seimei421haniwa) June 16, 2019
里宮辺りからの足尾山
のどか〜。 pic.twitter.com/RtUZ4l4diY
足尾神社(里宮)
— はにわ(にょろ子🐍🎀) (@seimei421haniwa) June 18, 2019
御祭神︰国常立命、面足命、惶根命
御神紋は、天狗の羽団扇と三つ巴
足尾神社は足尾山の麓にある里宮、山中の本宮、山頂の奥宮があります。足の病気にご利益があるとされ、今でも履物が奉納されてる。
集落の人達に親しまれているという印象でホッコリでした。 pic.twitter.com/MN0RZY6GQu
文治年間(1185年~1189年)の初め頃、源義経の家臣・常陸坊海尊が足尾山に籠って荒行を行ったといわれ、以来、「足尾山大権現」の霊山として修験道の修行道場として広く知られるようになりました。
足尾神社(本宮)
— はにわ(にょろ子🐍🎀) (@seimei421haniwa) June 18, 2019
足尾山は常陸風土記や万葉集に
葦穂山、小初瀬山(おはつせやま)と書かれている。
「言痛けば"をはつせ山”の 石城にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹」
油置売命(あぶらおきめ)」という
山賊が山の岩屋にいたと、常陸国風土記に書かれてる。
講座では巫女かもと仰ってた。 pic.twitter.com/DlygUUOtcZ
この山で修行した修験者が諸国を巡り、足尾神社が足病に御利益ありと広め、治癒を祈願し、草鞋や草履を奉納したそうです。
今は靴が奉納されていました。
まだ新しめの社殿、下の方は花崗岩でできている、両側の袖部分に天狗のリレーフ(浮き彫り)があります、常陸坊海尊👺でしょうか。
という事で、にょろ子はこう思うニョロ🐍🎀
古代からあった「あんば」地名と航海安全の信仰が根付き、疫病除け信仰となり、常陸坊海尊の天狗伝説も加わった。
疫病除けの「あんば大杉信仰」「航海安全の信仰」は、利根川、荒川水系を経て広まり、足尾神社の修験者が「常陸坊海尊」を全国に広めた。
各地で大切に伝えられている物語や、下妻市大串の個人宅敷地にある祠を見ても、
今回は↓こちらの「常陽藝文8月号」と
常総の歴史「第29号」を参考にさせていただきました。
2019年12月7日(土)~22日(日)(12月7日(土)・8日(日)はプレビュー公演) KAAT 神奈川芸術劇場<ホール>にて上演される舞台『常陸坊海尊』があるんですね。
この機会に勉強してみるのも良いかも。