にょろ子ログ

神社に伝わる伝承、伝説、民間信仰、祭りが好物な蛇🐍

まつろわぬ英雄「悪路王」

こんにちは、にょろ子です🐍🎀

ブログ初心者は、一記事書くのもアップアップニョロ💦

 さて、今回は蝦夷の首長と云われる「悪路王」についてちらりと書いてみます。

 

 

 

鹿島神社

茨城県城里町桂地区(旧東茨城郡桂村高久)

延暦年間(797)に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、北征の折、武運を鹿島神社に祈り、蝦夷の首長と戦うこと5年、ついに住処である達谷窟(高久鹿島神社縁起では平泉ではなく下野)”で「悪路王」を誅し、凱旋の途中にふたたび鹿島神社に立ち寄り、戦勝を感謝するとともに、本社前の「休塚」に首級(最初は本物でミイラだったと伝わる)を納めたものが神宝として存在している。

(「悪路王の首」は鹿島神宮にもある)

※写真は、2014年5月参拝時撮影のものです


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「悪路王頭形」

水戸藩主、徳川光圀(水戸黄門)が家来に命じて修理させた記録が残ってる。

「悪路王頭形久敗朽 今新彩飾 安坐常州高久村安塚之社中 元禄癸酉六年 源 光国」

なので、少なくとも江戸時代初期にはこちらの神社に祀られていたのが分かるのだとか。f:id:nyorokolog:20190915104844j:image



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古老の説に坂上田村丸”奥州の悪羅王を誅罰し帰京の時、此塚に休ひし所也。故に「やす塚」と云う。又、高久村休塚明神あり(水府資料)

義公奉納「悪羅王」の頭形ありとあるそうで(桂村史)には、悪路王を悪羅王と「茨城の史跡と伝説」には「悪来王」とも書くとありました。

 

現在は模型(レプリカ)が安置され、本物は茨城県立歴史博物館に預けられているそうで、一般公開はしていない、館員の方もあまりの迫力にその頭形を見るのが怖いと言ってるとか(四門の謎を解く・荒俣宏著より)

 

本殿彫刻

廃寺となった吉祥院のもの、中国の故事が再現されているそうで色も鮮やかで雨の日に生えていた。

※写真は2014年5月参拝時撮影です
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「休(やす)塚明神」尊称につきましては

茨城県神社誌」高久の鹿島神社は、「大神」「当地方平定」のとき、ここに休んだことによるらしいです。

ということは、坂上田村麻呂が祈願したときは「休塚」は存在していたと考えられ、では、その休まれた「大神」とはどちらの神なのか…

 

この高久の鹿島神社より南のゴルフ場のむこうに、古内の鹿島神社がありまして、興味深いお話が伝わってます。

鹿島大明神は、奥州塩釜から〈金の鷲〉に乗って初めて常陸国に来られたが、その天降られた地が「常陸国中郡古内山」であるといい、鹿島大明神天津児屋根命、金鷲に駕して常陸国へ天降りつつ古内山の旧跡「鹿島の里」に顕わる。その後、国中を巡り、鹿島郡宮処に御在所を定む。(茨城の史跡と伝説・茨城新聞社より)

 

鹿島の神が奥州塩釜から降りたと書かれている事が、気になりますね。

 

そして、その間の近くに、常陸国二宮の静神社の本宮と伝えられている「笠宮」が合祀されている「小坂神社」がある。



はにわ on Twitter: "笠宮・飯野宮・熊野の三社が合祀し小坂神社となった神社で笠宮が静神社の本宮、元宮と云われてるのを知りこちらにも御挨拶に伺いました。御祭神は天手力雄命。鳥居は見当たらず正面に参道はありませんでした。【 城里町・小坂神社】… "

 

 

同じく東の鹿島神社には、武甕槌命が木の根につまずいた伝承や、あの星神「天香香背男(天津甕星神)」様一族との最前線地区で激戦区だったと伝えられている。

静神社の本宮があるのも、坂上田村麻呂さんが武運を祈願するのも納得な感じですニョロ🐍

 

あとにょろ子が気になったのは「鹿島の里」と「此の地平定のため」という文。

このあたりが、鹿島神宮造営の為の木材供給場所だったことを以前受けた講習で聞いた、鹿島の里と呼ばれた所以はこのことと関係するのかな。

 

これらの話を読むと、最初に高久へ来て休息をとった大神とは、鹿島大明神武甕槌命)と想像しちゃいますが、坂上田村麻呂さんが休んだから休(やす)塚と云う伝承もあったりでわけわからんニョロ。

ただ、角川寅吉「茨城県における古墳の分布」には「古墳・安塚と云う」と記してあるそうで、古くからいわくありな土地で有ることは確かなのだと思う。

 

ちょっとのつもりが長々になってしまいました、阿弖流為と同一視されたり、伝承が混同されていたりとややこしいので、阿弖流為はここでは考えない事にして、

 

にょろ子は、こう思うニョロ🐍

鹿島神社が鎮座する場所は、古代の紛争の境界線だった説に一票ニョロ、鹿島神は人形道祖神の鹿島様にあるような境界神の神格があると思う。

 

常陸国は夷狄討伐の最前線基地で、まつろう者と、まつろわぬ者の堺、境界の地だった、高久から約11km東に位置する「瓜連(うりずら)」は、常陸国二宮「静神社」が鎮座する「天津甕星香香背男様を服従させた「建葉鎚命」を祀る重要な土地。

 

瓜がアイヌ語の丘を、連は大和言葉で、アイヌ語大和言葉の合成語だと言うし、佐伯や土蜘蛛、蝦夷や鬼の伝承もあって、9km先の那珂川を渡った先には「佐伯神社」も鎮座している。↓

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朝廷側から見たら、残虐な鬼、悪、夷狄の首魁といわれた彼らにも、家族や愛するものがいましたし、慕い頼りにしていた民衆もいたんですよね。

ここ桂村では悪路王を悪路王様と呼び、神として崇め、虫干し祭りと称してこの祭りの時だけ開帳を行っていたそう。

悪路王は達谷窟で仕留められましたが、このあたりは先住民の色が濃い地域だったことを思えば、同輩意識も根底にあったとも妄想してしまうニョロ🐍💦

 

平将門公同様に地元では人気があり、慕われていた鬼さんなので怖くはなかったです。

世が世ならば、あなたは英雄になったのかもしれないです、と手を合わせました。